自己紹介〜中学校時代〜

クラス編成

中学校は、公立の中学校で、小学校とほとんど離れていないところにありました。

中学受験する子はごく一部で、ほとんどはこの公立中学校に来る感じです。

ちなみに小学校の時のクラスは1学年6クラスで、1クラス30人くらい。

中学校は1学年11クラスで、1クラス30人くらい。

確か、1年の途中に新しい中学校ができて、その学区内に住んでる子たちは転校することになったので、3年の時は8クラスになってました。

それでも今と比べると多いですよね。

中学でも基本的な性格は変わってないんですけど、「中学に入ったらもっと喋ろう」と意識していたことは覚えています。

1、2年は斜め向かいに住んでいる同級生の友達と一緒のクラスになりました。

おかげで、一人になるということはなかったと思います。

中学の3年間、朝誘い合って登校もしていました。

中学では自発性が求められる場が多くなって、先生が主体となってグループや役割を決めることが少なくなりましたね。

なので、何とかしてどこかのグループに入っとかないとっていう意識は強かったです。

一人でいると、「あいつ友達いないんだ」とバカにされたり、いじめの対象にされることを恐れていたんですね。

現に中学の頃から、不登校で学校にこなくなる子をちらほら耳にするようになりました(原因がいじめかどうかは分かりませんが)。

卒業文集に、一言だけ「未来」とか大きく書いている子がそうだったんだと思います。

勉強

中学の頃から、成績主義というか勉強しないといけないという雰囲気は強くなりましたね。

3学期制で、中間テストと期末テストの点数でほぼ5段階の評価が決められ、テスト一週間前は部活も禁止。

僕の成績はというと、多分真ん中よりちょい上ぐらい。

くもんで英語をやっていたおかげで、英語は3年間ずっと「5」でしたね。

テスト期間は午前中で帰れたので、むしろラッキーって思ってました。

そういえば、この頃は週休2日制ではなかったので、土曜日の午前中は学校があったんですよね。

中学から塾へ行き始める子が増えてきたと思います。

僕は塾へは行かずに、「くもん」と「スタッド」に通っていました。

スタッドは確かスタディアドベンチャーの略で、くもんと同じく、少人数の個別指導のゼミみたいなものですね。

国語・数学・英語をやっていました。

僕が塾へ行こうとしなかったので、母親が心配して近所でそういう勉強する場があることを知り入会させたんだと思います。

母親が勧めてきたとはいえ、よく了解したなと思います。

3兄弟の中で僕が一番勉強に対する意識は低かったと思います。

高校受験

高校受験も大学受験も上を目指そうとしなかった。

入れる所に行こうというぐらいしか考えてなかったです。

家から自転車で一番近い公立高校には、I類とⅡ類があって、Ⅱ類の方が難しいんですけど、その高校のⅡ類を受けてダメだったら、別の高校のⅡ類に行かされる可能性があったので、安全圏でI類を受験しました。

冒険心がなく、新しいとこに飛び込むことを極端に嫌っていました。

その高校の選択理由も「近いから」「みんながそこを受験するから」ぐらいの理由しかなかったです。

姉はその高校のⅡ類に合格して、兄は別の高校のⅡ類に行ったんですよね。

僕は3兄弟の末っ子だったこともあり、姉と兄が先に行って作ってくれた道をそのまま歩いてきた感じです。

クラブ活動

中学の時はその同級生の友達と将棋クラブに入っていました。

将棋を始めたのは小学生の時からで父親が教えてくれたんだと思います。

小学生の時に兄と二人で将棋をやり始めて、そのまま中学で将棋クラブに入ったっていう感じです。

将棋に打ち込んでいたかというとそこまででもなく、他にやりたいことがなかったからなんとなくという感じですかね。

兄はバレーボールのクラブに入ったので、自分のやりたいことを見つけていましたね。

その同級生の友達と遊んでいたのも中学2年まで。

中学3年では別々のクラスになったこともあり、あまり遊ばなくなりました。

一緒に登校はしていたんですけど、あまり会話も弾まなくなったような気もします。

一番楽しかった中学3年

中学の3年間で一番楽しかったのは中学3年の時。

どういうきっかけだったか覚えていないんですけど、仲の良い友達もできて、一緒に遊べるグループに入ることもできました。

卒業文集に修学旅行のことを書いているんですけど、「仲の良い友達ができて楽しかった」とかいているぐらいだから相当楽しかったんだと思います。

ちなみに、小学生の時の文集では「みさきの家」のことを書いていたんですけど、「行くのが嫌だった」「緊張した」とか後ろ向きな表現が多かったです。

中学の修学旅行は、富士山、横浜の中華街、原宿とか東京方面でした。

確か当時オウム真理教で有名になった「上九一色村」をバスで通った記憶がありますね。

昼休みもその友達と弁当を一緒に食べたり、おにごっこをして遊んだりして一人で過ごすことがなく、本当に楽しかった。

中学2年の時はうまくグループに馴染めなくて、昼休みは一人で過ごしていたから余計にですね。

だから昼休みは図書室に行くようにしてたんですけど、閉まっていることが多々あって、することがなくウロウロしてたり。一人になれる所がなかった。

ウロウロしてる所を担任の先生に見られて、バカにしたように笑いながら「何してるのー?」と言われた時は傷ついたなあ。ほっといてくれと。

初めて死ぬことを考えた時

中学2年の時の体育祭で、集団演技とか大縄跳びとかの競技の中から一つを選んで全員参加するんですけど、ジャンケンで負けて応援団になってしまったことがあったんですよね。

当日前に出て、三三七拍子とかの振りをするのはもちろん、事前練習でクラスの前に出て練習の指揮をしないといけないヤツです。

当時の僕はそれが死ぬほど嫌で、初めて死にたいと思いました。

それが夏休みに入る前に決まって、本格的な練習は夏休み明けからになるんですけど、夏休みが終わったら死のうみたいなことを考えていたと思います。

当時、少年ジャンプで「あやつり左近」ていうミステリーの漫画が連載されていたんですけど、その犯人がわかってから死のうみたいなバカなことも考えていました。

枕カバーについていた紐で自分で自分の首を絞めてみたりしたんですけど、死ねなくて(当たり前ですけど)結局はやり遂げたんですよね。

死ぬっていうことは本当に追い詰められて、相当な覚悟なんだと思います。

まとめ

良い思い出は中学3年の時に集中します。

やはり、仲の良い友達ができたこと。

一緒に登校していた友達以外で、家に友達を呼んだり、その友達の家に遊びに行ったりしたことも初めてでした。

休みの日に二人で「太秦映画村」に行ったことも覚えています。

それぐらい仲が良かったです。

残念なことは、もう今は連絡をとっていないこと。

結婚していて、子供もいるということはうちの母親を通じて聞いてるんですけどね。

中学の時の自分に声をかけるなら、

・友達を大事にすること

・塾へ行くこと(もっと勉強すること)

・難関高校を目指すこと

・電車で遠くへ行くこと

金八先生みたいな学生生活が理想ですね。

卒業してもみんなで集まれるみたいな。

kou




ABOUT US
ryokou
僕たちは男性二人暮しの同性カップルです。 kouは京都府出身の37歳。人付き合いが苦手で内向的な性格。 平成16年3月京都産業大学を卒業。平成17年1月に就職(勤務地は京都で全国転勤ありの会社)。平成26年7月に高知へ転勤、平成29年10月に岡山へ転勤、令和元年10月に大阪へ転勤となり現在に至る。 平成30年5月に難病指定されているベーチェット病を発症。特定疾患受給者証の交付も受け、現在も治療中。 ryoは高知県出身の32歳。2017年にkouと出会い人生が変わる。ミニマリストな思考のkouに影響を受け、シンプルライフを志す。 二人に共通すること 半年ぐらい前からミニマリスト、シンプリストの動画を見るようになる。退職しストレスフリーな生活に憧れを抱くようになり、あまり多くの物を持たずシンプルな生き方を模索しています。