高校卒業後、専門学校に通っていたときのしくじり その③〜学業と就職活動の板ばさみ〜

こんにちはryoです。

前回のつづきです。

憧れのあの子が学校を去り、僕は少し空虚感を感じつつ、残りの学生生活を送っていたのですが

ここでまた僕の悪いところが出てくるのです。

ほどほどに、うまくこなす。

それが出来ず、四年生になってもまた三年生と同じ事を繰り返してしまったのです。

そのはじまりは、まず卒業制作

これは春くらいからだったかな?

6人くらいのグループで卒業制作のチーム分けをされ、冬の発表の場に向けて作品を作るというもの。

これにもちろん普段の課題+就職活動

そして+ファッションコンテスト。

これにより僕は完全に自分の行く末を見失いました。

前述しましたが、ファッションコンテストの課題は任意ではなく必須。デザイナーを育成するんだから当然っちゃ当然なんですがね。

三年生の時は全く一次審査も通らなかった自分ですが、四年生に出したデザイン画が通ったのです。

覚えてる限りでは別のコンテストで4つデザイン画の一次審査を通ったと思います。

ですが通ったということはその作品を作らなければなりません。

さあ困りました。

絵を描くのは得意な自分でしたが、立体にして形にするとなると、、、

ムリでした。

そんな技術持ち合わせておらず、レベル10のポケモンで四天王に挑むようなモノ。

コンテスト用に考えた奇抜なデザインの洋服。

しかも課題をなんとか間に合わすために、特に作りたいと思って描かなかったやっつけのデザインが通ったものですから、思い入れも特になく。

最初に志していたファッションデザイナーになりたいという思いはもうそこにはありませんでした。

もちろん、最初通った時は嬉しかったし、賞に入れば賞金も出る。製作費も多少出る。

ただその当時、お金の管理、物の価値観、生地やファッションに対する知識が乏しく、また制作を手伝ってくれる友人も少なかったため(手伝ったとしてもその人達にはなんのメリットもありません)僕は数少ない友人の女の子一人と作品を全く想像できぬまま、手探りで作っていきました。

ですが、満足できる仕上がりとは言えず・・・小さい賞は二つほど獲ることが出来ましたが、それはファッションデザイナーになる上でアピールをするにはあまり意味がないものでした。

作品に対して情熱や愛情を持つ事も出来ず、並行しての就職活動。

就職担当の先生と、担任の先生での板挟みというかあっちはこうした方がいいと言うし、こっちはこう言う。

そして卒業制作の作品作り。

先生からのOKは中々出ず、グループ内での意見もまとまらず。中々進まない制作状況。

もう限界でした。

そして行きたい会社もわからず、とりあえず受けてみなさいと行った会社。だけどなんでここに入りたいかとか、その会社の概要もわからずに行って、受かる訳ないですよね。

奇跡的に大手で2次審査、3次審査までいけた会社もありましたが、最終面接を受けて落ちました。

正直自分でも何言ってるかわからなかったです。

だって入りたいって思って行ってないんだから。

結局僕は何もかも中途半端にして、何も成し得ることも出来ず。学校を卒業だけして、就職することも出来ず。

何もないまま、地元に帰り実家で暮らす生活を送ることになりました。

それが2010年3月でした。

今だからわかる僕がしたたくさんのしくじり。

まずは自分の限界を知る。

全てを完璧にこなそうとしない。

プライドが高い故に結局中途半端になり、課された提出が出来ないというのは、99%出来ていたとしても出さなければ何にも成し遂げられなかったという事です。

そして、もっと周りと良好な関係を築き、いざという時には「助けて」と言える環境を作る。

甘えのようにも聞こえますが、人一人が出来る事には限界があります。

誰かに助けてと言える人は実は強い人だと、思っています。

だって恥ずかしいじゃないですか、弱い自分を晒すのって。

そして当時の自分には、何に関しても知識というものが圧倒的に不足していた為、普段の友人とのコミュニケーションがあれば、得られたヒントや解決の糸口などはもしかしたらあったかもしれないです。

そして自分が何をしたくて、どうなりたいか

その意志をはっきりもつ事。

先程板挟みになってと書きましたが、そこに自分のはっきりとした意志があれば結果はまた違ったものだったかもしれません。

ファッションデザイナーにはなるのは難しいから、ファッション関係の会社に正社員として就職をする。

お金を貯めて自分のしたいことが出てきたらその会社を辞めて、自分のしたいことをする。

もしくは細々と働きつつも、空いた時間を利用して夢に向かって頑張る。

この二択だったのに。

僕はどちらも選ぶことが出来なかった。

情けない以外何もない。

ウソをつけない性格というのは時に生きづらいもので

たとえ興味がなかったとしても面接などで適当にいい感じの事をペラペラと話す。

そういう事が出来ない。

今はウソも方便という言葉を知ってから、時にウソをついてやり過ごす事もあります。

だけど、それが続くと心が重くなってきていつかは精神がおかしくなってしまう。

僕はその繰り返しでした。

それは僕が学校を卒業して、地元に帰って過ごすようになってからも続きます。

僕の20代は決していいものではありませんでした。

コウと出会うまでは。

長くなってしまいましたが、自分の過去についてお話しさせていただきました。

色々と悩んでる方の参考になればいいなと思います。

次回は地元に帰ってからのお話しをしようかと思います。

ではでは。

ryo




ABOUT US
ryokou
僕たちは男性二人暮しの同性カップルです。 kouは京都府出身の37歳。人付き合いが苦手で内向的な性格。 平成16年3月京都産業大学を卒業。平成17年1月に就職(勤務地は京都で全国転勤ありの会社)。平成26年7月に高知へ転勤、平成29年10月に岡山へ転勤、令和元年10月に大阪へ転勤となり現在に至る。 平成30年5月に難病指定されているベーチェット病を発症。特定疾患受給者証の交付も受け、現在も治療中。 ryoは高知県出身の32歳。2017年にkouと出会い人生が変わる。ミニマリストな思考のkouに影響を受け、シンプルライフを志す。 二人に共通すること 半年ぐらい前からミニマリスト、シンプリストの動画を見るようになる。退職しストレスフリーな生活に憧れを抱くようになり、あまり多くの物を持たずシンプルな生き方を模索しています。